お葬式に行くと温かいご飯を食べたくなるのはなぜだろう。

先日、祖母が亡くなった。

 

お葬式に行くと温かいご飯が食べたくなるのはなぜだろう。

 

 いま、お通夜とお葬式をしに地方の方に来ている。家族葬ということではじめは10人以下でする予定だったのだけど、思いのほかたくさんの、というか親族全員が集まってくれて30人以上でのお通夜、お葬式になっている。家族葬にしますと周りにも言っていたにもかかわらずご近所さんもあわてて駆けつけてくれていた。

 

さすが地方で地域でのつながりが強いなと思うのと同時に、祖母はいろんな人から愛されていたんだろうなぁと思うと心が温かくなった。これだけの人が集まってくれて祖母も幸せだっただろう。

 

 

祖母が亡くなったのは数日前の朝のこと。急な心肺停止だった。朝の10時ごろに電話がかかってきた。「おばあちゃん心肺停止ですー。」なんだって?思わず耳を疑った。あのおばあちゃんが亡くなったのか?すぐには受け止められなかった。人が死ぬということに直面するのは人生で2回目だが、いまだに実感がわかない。

 

 

祖母が入院していたのは半年前。入院してしばらくはお見舞いにもたくさん行ってたつもりだった。その当時から少しずつ認知症が入っていたのだけど、孫のぼくの顔はすぐにわかったみたいでお見舞いに行くと手を握ってありがとうと言ってた。決して元気ではなかったけど、いろいろと頑張っていたみたいだった。

 

だけど最近はいろいろ忙しいということもあって行ってなかった。母親の話によると、認知症が少しすすみ、体調も良くなかったようだった。また行けばいいや。そう思ってた。行こう行こうと常に思っていたけどいけなかった。というか行かなかった。明日も明後日も明々後日も、ずっといると思っていたおばあちゃんはもういなくなってしまった。なぜもっと行ってあげなかったのだろう。もっといってあげたらよかった。近くにあげたらよかった。すごく後悔した。

 

 

祖母のお通夜、お葬式ということもあって来ている人たちの年齢の平均は大体が60過ぎだった。上は80以上、下でも50代だった。20代だったのは僕だけだった。これといったお手伝いもできることもなかったが、かといってその辺で遊んでいていい子供のような年齢でもない。自分がいかに自立できてないのかというのも思い知った。お通夜や葬式に関する知識は学校では全く学ばなかった。お焼香の知識も、お葬式に必要なことや費用も。あとは相続のことも。だからと言って知らなくてよい知識じゃない。しってて当たり前なのだ。

 

 

20代という年齢は人生において大きな転換期だと僕は思った。10代の子供のころのように親も周りも叱ってはくれないし正しいのかどうかもわからないし、何をすればいいのかわからない。だけどやるべきことはやらないといけないし、するべきことは自分で見つけないといけない。大学でぬるま湯につかってて気が付かなかったけれど、20代は立派な大人なのだ。もっと自覚を持たないといけないと思った。一大人として自覚を持たないといけないと思った。小さいころ20歳になったら立派な大人になるのだろうと思っていたけどそうじゃなかった。自分から変わらないといけないのだった。

 

 

僕は今回のお葬式を通していろいろな気づきがあったと思う。もう自分は子供でいてはいけないということ。あとは人は死ぬということ。それと、時間は有限であるということ。当たり前だけれど誰もが普段は意識してないことばかりだ。

 

 

 

それはそうと、お葬式に行くと温かいご飯が恋しくなるのはなぜだろう。僕は今回、会館ではなく小さいハコを借りて葬式をしてる。鏡も、風呂も、お湯も出ない、布団もない場所で寝泊まりしてる。ご飯は毎回コンビニのサンドイッチ。こういう特別な場所に置いて生活リズムが狂うのは当たり前で仕方ないことだけれど、何か物足りなくなる。

 

 

こういう時に温かいご飯が詰められたお弁当を食べられると幸せだろう。

僕はそういう人間になれるように成長しようと思う。

 

 

無料ブログでメモ書きをしていた時にはそれほど難しいと思ったことはなかったのですが、ちゃんとキレイにして